等価値

高校野球、夏の県大会が始まりました。

最近、小さい弟の野球っぷりを観ていて、そして彼や母や父や大きい弟の言動を目の当たりにするにつけ、とても強く思うことがあるです。それは「プレーしている本人が辛い時、それを観ているだけしか出来ない人間だって、実は同じくらい辛い」ってこと。

まあね、実際にプレーしているのは小さい弟本人ですよ。運動して疲れるのも、レギュラー穫れなくて悔しいのも、肩が痛いのも腰が痛いのも、彼本人だけの苦しみですよ。

でもそんな彼の様子を観ているだけしか出来ず、ご飯作ったり、ユニフォーム洗ったり、毎朝電車のない時間であれば学校まで送っていったり、ナイトゲームを観に行ってはドリンクや軽食を用意したり、ボールを毎晩磨いたり、期末テストだからと夜中の1時2時まで勉強に付き合って、さて結果はどうだったのかと訊いたら「楽勝!」とか答えが返って来たのに、実際に返って来たテストは赤点だったりとか、そういう、サポートしか出来ない立場の苦しみってのもあるんですよ。

で、どっちも互いが存在しなければ、スポーツなんて出来ないと思うんですよ。やる側があって、観る側がある。送られる側と送り出す側がある。だから、ワタシはサポートする側の人間だって、時に、プレーしている側の人間に要求したって良いんだと思うんですよ。いろんなしがらみを言い出したらキリがないんだけど、でもやっぱり、スポーツってのは、一人じゃ絶対に成り立たないんですよ。競技の種類に関係なく。スポーツに限ったことでもないか。
プロなら、興行だという側面だって、忘れてはいけないんだから。
そりゃあね、別にレッズがどれだけ負けてもふがいなくても、ワタシが観客の最後の一人になっても、ワタシはスタに行きますよ。でもワタシらがスタに行くなら、レッズだって、ワタシらをスタに呼び寄せなくてはいけないの。

過大な要求と常に要求オンリーな態度は勘違いだけれど、そのさじ加減が難しいけれど、やってやったことに見返りよこせ!っていうわけではなく、二人三脚なんだから、おまえが一人でへばってたら、こっちも困るんだよ!みたいなね。そう、心と身体の半分がへたり込んだままだと困るの。要求って言葉がおかしいのかな、叱咤っていうのかな、とにかく。

だからワタシは「ゴールで俺たちを熱くさせろ」コールは好きだけどな。「させろ」って命令形がダイレクトに要求っぽくてイヤだと思う人が多いんだろうけど、ワタシはそういう大上段に構えて言うんではなく、もっと頑張れって気持ちで歌うけどね。

まあ互いが互いにしてあげられることなんて、たかが知れていて、そこからいっこいっこ拾って行くだけですよ。